東京、23度。
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1歳10ヶ月の娘は今「語彙爆発」の真っ只中。いろいろな言葉を片っ端から拾ってきてどんどん自分のものにしている。面白いことに、彼女は単語の末尾の音を先に拾ってくる(例:あぶない→ぅない)ことが多い。現在4歳2ヶ月の息子がこのくらいの年頃のときには、どちらかというと単語の頭の音を先に拾ってくる(例:あぶない→あぶー)ことの方が多かったのだが。

「語彙爆発」という言葉は、2年半ほど前、息子が今の娘くらいの頃に読んだ「ことばの発達の謎を解く」(今井むつみ著)の中に出てきて知った。先日ふと思い出して再読してみたところ、前回と同じところで改めてうなずくことはもちろん多々あったのだが、それ以外に、前回あまり気に留めなかったところにも幾つかの気付きがあった。特に、ものの性質、色、位置関係について書かれた章は、最近の息子の言葉についてあれこれ感じていたことを整理するのに役立った。

興味深い発言や発語は、それこそ彼の「語彙爆発」以来ずっと、毎日毎日いろいろあるのだが、近頃そのいろいろがかなり集約されて現れる場面がある。ラジオから気象情報が流れてくるときだ。「明日の最高気温、東京、23度・・・」と聞けば、まず「明日、東京は23度だって!」と耳に入ってきた情報をリピートして聞かせてくれる。そして次に「23度って暑いよね?」というようなことを訊いてくる。「暑くはないと思うよ、涼しいんじゃないかな。」と返したりするわけだが、そうすると「でも、おかあちゃん、23度ってすごくあったかいって言ったよね。」というご指摘を受ける。たしかに春先には、そう言ったかもしれない。しかしめげずに説明らしきことをしてみる。「でもさ、今日なんて29度で暑かったじゃない?それと比べると明日はずいぶん涼しいな〜って感じるんじゃないかなあ。」すると今度は「そうか!それだったら明日はぬるいってことだね。」と、昨日お風呂で話題になった単語が登場したりする。

上掲の本によれば、形容詞の習得の過程については、長期にわたって調べた研究がほとんどないらしい。しかし、さまざまな断片情報に基づく推測として、4歳くらいまでの子どもが形容詞(ものの性質)を学ぶには名詞(そのものの名前)を知っていることが前提条件らしい、ということや、「大きいー小さい」などの形容詞の対応関係を理解することよりも、まずは特定の名詞の性質を言うときにどの言葉を使うのかという事例が断片的に記憶されていき、ある程度たまったところで対概念が整理されるらしい、といったことが書かれている。なるほど、息子はまさにその「貯蓄」の最中なのだろう。

ところで、気象情報が学習の機会をもたらしてくれるのは暑い寒いの形容詞だけではない。毎回ずらずらと登場する県名(東京など)、地方名(関東など)、方角(東西南北)などもなかなか難しい課題になる。息子が気象情報を意識しはじめた頃、彼にとって「東京」は東京駅のことで、自分の住んでいる場所とは結びつかない様子だった(いわんや「関東」をや)。しかし近頃では、じわじわとその関係を理解しつつある。地名そのものに対する関心は、電車への関心と相まってもともとかなり高く、「北海道は晴れ」と聞けば、「北海道は晴れなんだって!」とリピートしたのち「北海道って上にあるんだよね?」という確認が入ったりする。「そうそう、良く知っているねえ!」と褒めつつも、そのとき天井に向かって勢いよく突き上げられた彼の人差し指がちょっと気になる。「上といっても、お空じゃなくてね・・・」と、いちおう地図を水平にしたり垂直にしたりしながら説明を試みる。

一つ一つの説明がどこまで伝わっているかは不明だが、そんなことはまあ、どうでもいい。こういうやりとりをしていると、彼の中の辞書がいつのまにか確かな大きさを持っていることが手に取るように分かるし、それがまるで生き物のように膨らんだり濃密になったりしていくのが目に見えるようでもある。もちろん娘も同様。学ぶってこういうことだよなあ!考えるってこういうことだよなあ!!としみじみ思わされるし、何より楽しい。
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# by kyuco | 2015-06-07 22:37 | K&M
蓮の骨
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美術館のいりぐち遠し蓮の骨  遊虚
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# by kyuco | 2014-12-12 01:33 | 景観-風景をキリトル
「現代のベートーヴェン」騒動考
ゴーストライター騒動、とても興味深く、あれこれ関連記事を読んでみた。

一番腑に落ちたのは、江川紹子さんの論考。

→→「彼はなぜゴーストライターを続けたのか~佐村河内氏の曲を書いていた新垣隆氏の記者会見を聴いて考える」

「メディアを舞台にして、多くの善意の人によって「神話」が拡散されていったプロセスこそが、もっとも検証されなければならないもの」という最後のくだり、本当にその通りだと思う。

それから、昨年11月号の「新潮」に掲載されていた記事。

→→「「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か」(野口剛夫著)

この論考には、彼(ら)の音楽そのものを冷静に分析・評価した結果として浮かびあがる「疑念」が記されているのだが(さすがに「ゴーストライター」にまでは言及していないが、見え隠れする「虚構性」を鋭く指摘)、このようなことを、今回の告白よりずっと前に活字にしてしまった筆者の耳と勇気に感心した。

「楽曲に罪はない」「音楽の価値は変わらない」ということが盛んに言われている。もちろんそれはその通りで、一度でも彼(ら)の音楽に感動したことのある人たちが、必要以上に怒ったり傷ついたりすることはないと私も思う。しかし、この「神話」拡散に少なからず貢献したであろう、我々自身の「心のものさし」の不確かさを、少しは考える必要がある。私たちは何を見て(聞いて)きたのか。その反省なしにこの正論だけを振りかざしても意味がない。
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# by kyuco | 2014-02-08 00:53 | 時事問題-日本


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